森鴎外って作家だけじゃない

 『東京方眼図』

『森林太郎立案 東京方眼図』明治42年8月15日発行 春陽堂

復刻版:『特選 名著復刻全集 近代文学館』昭和49年3月1日 日本近代文学館


明治・大正期を代表する作家・森鴎外。その鴎外が地図を作ったという話を聞くと、驚かれるかもしれない。
こんにちはコシャです。先日YouTubeにブログ開設のお知らせを公開させていただきました。
改めてこれからもよろしくお願いします。

今回はタイトルの通り森鴎外は作家だけでないということをお話ししていこうと思います。このブログは先日YouTubeの方で上げさせてもらったもので音読しています。ぜひ聴いてください。

URL


森鴎外の小説『青年』は次のような文章で始まる。


小泉純一は芝日陰町の宿場を出て、東京方眼図を片手に人にうるさく問うて、新橋停留場から上野行きの電車に乗った。目まぐろしい須田町の乗り換えも無事に済んだ。さて本郷三丁目で電車を降りて、追分から高等学校に附いて右に曲がって、根津権現の表坂上にある袖浦館という下宿屋の前に到着したのは、十月二十何日かの午前八時であった。

ここに登場する『東京方眼図』こそが、実は森鴎外自身が考案した地図である。1909年(明治42年)8月の出版で、地図の左上には「森林太郎立案」と大きく書かれている。その名の通り地図の上に格子状の線が引いてあり、縦に一〜十一、横には右から左にい〜ち(いろは順)と記号が降ってある。地名索引の小冊子が付属してある。現在の地図ならごく当たり前の工夫だが、こうした仕組みを取り入れたのは、日本の地図ではこの『東京方眼図』が最初ではないかと言われている。1921年(大正10年)発行の『早分かり番地入東京市全図』もこの方式を採用していて、森鴎外の『東京方眼図』における民衆の驚きはこれまたすごかったことだろう。一枚地図と地名索引の小冊子の構成で、当時の人々には高級品だったのかもしれない。

鴎外が雑誌『スバル』上で『青年』の連載を始めたのは、1910年(明治43年)3月で、『東京方眼図』が出版されてから、半年ほどしか経っていない。この地図を使えば、小泉のように、初めての東京でも迷うことはないということを宣伝したのかもしれないが、どう出会ったのだろう。

鴎外自身は、1872年(明治5年)に島根県の津和野から父と一緒に上京している。当時の鴎外は数え年で11歳の子供なので、たとえ地図があっても、とでも東京を自由自在に歩くことはできなかったであろう。

この地図は、鴎外が留学中にドイツで見たガイドブックを参考にして作ったのではないかと言われている。鴎外は文学者であると共に軍人でもあったが、軍人にとっては、地図を読むことは必須の技能であったのかもしれない。いずれにせよ、鴎外がこの地図を作ったことが、日本に方眼図による地図帳の先駆けになったということは大きな功績であると言えるだろう。

どうでしたか、お読みいただきありがとうございました。これからもよろしくお願いします。

コメント

このブログの人気の投稿

「生まれてくる家間違えたー!」①

警察日記

初めての古本の話【コシャver.】